Find us on Facebook

剣菱の歩み

*

剣菱の歩みイメージ

『東海道五十三次』(隷書版)のなかに描かれた剣菱。

創業以来、その味を変えることなく現在まで継承され続けてきた剣菱。長い歴史のなかで、酒造家の交代や戦争、震災などさまざまな出来事に見舞われ、かつての造り手たちが残した記録の多くは失われました。それでも、こうして歴史を振り返ることができるのは、かつてのお客さまの“思い出”のワンシーンのなかで今も剣菱が生き続けているからこそ。さまざまなお客さまが、さまざまな思いで剣菱を飲み、ときに喜び、ときに涙し、ときに覚悟し、ときに失敗し……。時代ごとに環境や立場は違えど、剣菱は多くのお客さまの生活に寄り添って今日まで歩んできました。造り手と飲み手、その両者が500年かけて築いたドラマ。そして、その両者によってこれから築き上げられていくドラマ。それが、「剣菱の歩み」です。

お客さまとともに築いたこれまで。そして、これから

試練を乗り越え再起。そして、未来へ(昭和〜現在)

昭和3年(1928)

白樫政雄が剣菱のバトンを受け継ぎ創業

昭和4年(1929)

白樫政雄が剣菱酒造を設立

“丹醸”の誇りを継承し、“灘の剣菱”の歴史がスタート

剣菱のバトンを受け継いだ白樫政雄は、灘(住吉)の酒蔵で酒造業を開始。水を西宮から船で運び、それをトロッコで蔵のなかへと引き込んで剣菱を造り始めた。このとき、剣菱が“伊丹の酒”から“灘の酒”へと生まれ変わったのだが、ラベルにはそのまま“丹醸(たんじょう)”の文字を継承。剣菱の味は、先人たちが愛し続けた味であり、先人たちが守り続けた味でもある。その味と歴史に対する「敬意」と、その味と歴史を引き継ぐ「覚悟」の現れだった。白樫政雄が灘で剣菱を造り始めてから現在に至るまで、剣菱のラベルから“丹醸”の二文字が消えたことはない。

*

剣菱のバトンを受け継いだ白樫政雄。“灘の剣菱”がはじめて醸された住吉の蔵は、住吉神社の表参道を下って浜に出た付近にあった。

昭和13年(1938)

阪神大水害により酒造蔵が浸水

昭和18年(1943)

政府の企業整備により近隣の酒造会社と合併。甲南酒造を設立。

「剣菱にあらず」白樫政雄の決断と、空白の5年間

太平洋戦争における物資不足に伴い国の指導のもと行われた大規模な酒造業の整備により、剣菱酒造は他の3酒造会社と合併。甲南酒造として引き続き酒造りを行うことになったが、この間、白樫政雄が剣菱の商標を使うことは一度としてなかった。理由は、「今造っている酒は剣菱に値しない」から。『近代風俗志』のなかで「古今第一トス(ここんだいいちとす=昔も今もいちばん良い酒である)」とまで記された剣菱の味は、お金を払って飲んでくださるお客さまと、そのお金で変わらぬ味を醸し続けた酒造家たちによって守られてきたもの。たとえ戦中とはいえ、その味を守ることができなければ先人たちに申し訳が立たない。そう考えての決断だった。この合併は約5年後に解散となるが、剣菱が酒を造りながらも剣菱という名の酒が世に出なかったのは、500年の歴史のなかで後にも先にもこの約5年間だけである。
参考文献:『醸界通信』昭和54年(1979)9月10日号

*

*

日本初の近代的国語辞典とされる『言海』(剣菱酒造蔵)。この辞書に酒の銘柄として登場するのは剣菱だけであり、白樫政雄はよく剣菱が載っているページを開いて知人に見せていた。

昭和20年(1945)

空襲により灘(住吉)の蔵が焼失

昭和24年(1949)

三倍増醸法が本格的に導入される

昭和24年(1949)

甲南酒造の解散により、現在の場所(御影)に剣菱酒造が復活。白樫政一が社長に就任する

父親から息子へ。初代から二代目へと受け継がれたもの

戦後の深刻な米不足のなか、国の指導により昭和24年から三倍増醸酒(酒に水と醸造アルコールを足し、薄まった味を酸味料や糖類などで補って造る通称「三増酒」。純米酒と同じ量のお米で三倍の酒を造ることができた)の生産が本格的に導入された。しかし、当時社長に就任したばかりの白樫政一は「これは日本酒ではない」と主張し、その生産を拒否。当然、国の指導に対してそのような言い分がまかり通るはずもなく、抵抗しきれなくなった白樫政一は桶1本分だけ三増酒を造るということで了解をとった。が、造った三増酒は桶ごと他社に譲渡。剣菱の商標をつけて売ることはなかった。当時は、酒の質よりも量が求められた時代。言うまでもなく、「この酒不足の折に他社に酒を譲る余裕があるとは何事か!」ということになり、処罰(酒造りに使えるお米の量をカット)を受けたが、それでも白樫政一は三増酒を剣菱の名で世に送り出すことを断固として拒み続けた。さらにその約10年後、またも酒造米カットの処罰を受けるという事態が。酒不足の時代ゆえ、新酒を10月まで売らないことを「剣菱は酒の価格が上がるのを待って売り惜しみしている」と誤解されてのことだったが、このときも白樫政一は“夏を越して「秋晴れ」を迎えてこそ天下一品の酒になる”という灘の酒の特徴を重んじ、その方針を曲げることはなかった。たとえ処罰を受けようが、不心得者の烙印を押されようが、剣菱の味は決して変えない。父親から息子へ。初代から二代目へ。頑固な性格とともに、その強い意志は確実に受け継がれていた。
参考文献:『醸界通信』昭和54年(1979)9月17日号

*

若き日の白樫政一。

*

白樫政雄から白樫政一へと「古今第一トス」の誇りは継承された。

昭和47年(1972)

浜蔵を建設

昭和51年(1976)

精米場を建設

剣菱の愛されている風景

昭和の幕開けとともに新たなスタートを切った剣菱は、恐慌や天災、戦争といった試練を乗り越え、お客さまの支持のもと大きく発展を遂げていった。灘に移ったばかりのころ1蔵だった酒造蔵は昭和56年(1981)までに8蔵に増え、販売量も昭和53年(1978)には16万石に。江戸時代と現代、生活スタイルは異なれど剣菱のあり方は同じ。それを物語るように、かつて川柳や浮世絵といった娯楽文化のなかに描かれた剣菱の“愛されている風景”が、時代を超えて現代の娯楽文化のなかにも描かれていくようになる。

国民的漫画の主人公が、剣菱の酒造蔵を見学!

人気漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』第14巻(秋本治/昭和55年[1980])「酒飲むべし!の巻」で、“両さん”こと両津勘吉が剣菱の酒造蔵見学に。
※剣菱酒造では、一般的な酒造蔵の見学は行っておりません。

一世を風靡した、あのセーラー服刑事の武器にも……

昭和60年~昭和61年(1985〜1986)に放送された人気ドラマ『スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説』(フジテレビ系列)。ヒロイン3人組のひとり、財閥令嬢の矢島雪乃が武器として使用していた袱紗の中央に、剣菱のロゴマークが…。

『広辞苑』にも収録

国語辞典『広辞苑』(岩波書店)で「剣菱」を引くと、他の意味に混じって「摂津の伊丹産の上酒の銘」と記されている。

泣く子も黙る?剣菱が台石の“ちょうつ菩薩さま”

東京・杉並区久我山に石造の剣菱の酒樽を台石にした舟型浮彫りのお地蔵さまが祀られているが、昭和55年(1980)に発行された『杉並の伝説と方言』(森泰樹)には、そのお地蔵さまにまつわる伝説が。昔、久ヶ山村に伝右衛門という酒好きの人物が存在。酔うと人の頼みをなんでも引き受ける酒癖があり、面白がった村人たちが酔っているときに薪割りや畑仕事などの手伝いを頼んだため、伝右衛門は年中仕事に追われていた。「生きているうちは仕事に追われているんだから、死んだらゆっくり酒樽(さかだる)の上で暮らしたい」。そう考えた伝右衛門は、剣菱の酒樽を台石にした墓石を作成。文化12年(1815)に亡くなった。その後まもなく、伝右衛門の親戚宅に赤ちゃんが誕生。その赤ちゃんが毎晩夜泣きするため困り果てていた母親は、ある晩、赤ちゃんを抱いて伝右衛門の墓前へ。「生前の伝右衛門さんなら、頼めばなんでも聞いてくれたのに……」。そう思い、墓石に向かって「夜泣きを止めてくださいな」とつぶやいた。すると、赤ちゃんがぴたりと泣き止んだとか。その話は瞬く間に世間に知れ渡り、なおかつ効果もあったため“ちょうつ(ちょうじゅ)菩薩さま”と敬われて現代まで信仰が続いていたという。ちなみにお祈りの方法は、酒をたくさんかけるとお地蔵さまが酔っぱらって効き目がなくなるため、少しだけかけて「夜泣きが止まったらいっぱい差しあげます」とお祈りすればよいとか、剣菱をあげるといちばん効き目がある、などと語り継がれている、らしい。
参考文献:『杉並の伝説と方言』(森泰樹著)

*

両さんは剣菱について「わしがいちばん好きな酒だ」と豪語。ちなみに、両さんは「8歳の時から親しんでいる」とも語っているが、それはあくまで漫画の話。未成年の飲酒はダメ!絶対。
©秋本治・アトリエびーだま/集英社

*

*

最新の第六版にも剣菱は収録。
©岩波書店

*

“ちょうつ菩薩さま”のエピソードが紹介されている『杉並の伝説と方言』。
©杉並郷土史会

平成4年(1992)

日本酒級別制度が撤廃

二級酒を一度も世に送り出したことがない剣菱

日本酒級別制度は、日中戦争勃発による米市場の混乱により悪酒が横行していた昭和18年(1943)に、酒市場の建て直しを図るべく政府が導入した制度。市場に流通する酒を品質や規格の差などにより分類してそれぞれ異なる税率を適用するというもので、戦後は「特級」「一級」「二級」の三段階に落ち着き平成4年まで存在した(「特級」は平成元年[1989]に廃止)。戦中や戦後の物資不足、さらに昭和末期の“地酒ブーム”など、時代の流れのなかで二級酒を製造・販売することがごく主流となったが、剣菱はこれまでに一度も二級酒にあたる酒を世に送り出したことがない。

*

現在の剣菱のラインアップ。

平成6年(1994)

白樫達也が社長に就任

平成7年(1995)

阪神・淡路大震災が発生。7蔵が倒壊

関西地方を襲った悲劇。それでも、剣菱は……

平成7年1月17日午前5時46分。阪神・淡路大震災が関西地方を襲った。剣菱も平成元年(1989)に移築を行っていた浜蔵以外の木造7蔵がすべて倒壊。まさに危機的状況だった。それでも、倒壊した蔵のなかから使える道具をかき集め、浜蔵に酒造りの全機能を集結させて酒造りに着手。同年末には、中蔵と魚崎蔵の2蔵を再建した。

*

*

平成7年に再建した中蔵と魚崎蔵。昔ながらの酒蔵風景は失われたが、酒造りにかける熱い思いは変わらない。

平成9年(1997)

内蔵を建設

平成11年(1999)

内蔵に貯蔵庫を建設

平成14年(2002)

浜蔵に貯蔵庫を建設

平成20年(2008)

黒松剣菱180ml グッドデザイン賞受賞

平成25年(2013)

ホームページおよびフェイスブックを開設

これからも、お客さまとともに

お客さまのさまざまな思い出によって彩られた剣菱の500年。私どもは、そんな剣菱の歴史をただ知っていただくだけではなく、実際に現代のお客さまにその歴史にご参加いただきたく、ホームページ内にフェイスブックと連動した「剣菱百景」というページを設けさせていただきました。これからも、剣菱の歴史の主役は、愛してくださるお客さまお一人おひとりです。

平成28年(2016)

グッドデザイン・
ロングライフデザイン賞受賞

平成29年(2017)

白樫政孝が社長に就任

*

平成9年に再建した内蔵。

平成14年には、浜蔵に貯蔵庫を増築。

*

剣菱百景ページを見る

ページトップに戻る